東京という場所

私は生まれは神奈川だが、大学に入ってからというもの、東京で過ごすことが多くなり、今では東京の片隅で一人暮らしをしている。 そんな私は東京という場所が大嫌いである。反吐が出るほどに。 東京が好きという人もいるだろうが、そのような人はこれから先を読まない方がお互いのためだろう。

東京を嫌いと感じる理由は数多くあるが、まず第一に人が多すぎる、ということがある。 生来私は人混みというものが苦手だ。人混みに足を踏み入れると、どんなに楽しい場所でもすぐに疲れてしまう。 そんな私にとって東京はこの上なく生きにくい。 渋谷や新宿、池袋など東京の主要な都市は軒並み、人、人、人で溢れている。 東京にいる限り人混みから逃げることはできない。

第二に、東京という街が持つ忙しなさが肌に合わない。 私の目には東京で生きる人々は、せかせかと生き急いでいるように映る。 毎日を猛スピードで走り抜けている、そんなイメージだ。 しかし私はもう少しゆったりと日々を過ごしたい。

第三に、満員電車の存在だ。 もうこれは本当に耐えられない。 今でこそ電車を使う機会は減ったが、それでもラッシュアワーの電車は、人が乗って良いものではない。 東京の人の多さを鑑みると、致し方ないのかもしれないが、であれば私は東京には住みたくない。

第四に、これが最大の理由であるが、自然が少ないということだ。 日本の原風景は非常に美しい。 私はそんな自然に囲まれて、のんびりと毎日を過ごしたい。 しかし東京にそのような場所は絶無である。 いや、絶無は言い過ぎか。もちろん奥多摩や高尾など、少し郊外に出れば自然豊かな場所もある。 だがそれは圧倒的に少ない。 わざわざ足を運ばなければ、自然に触れる機会は得られないだろう。

このように東京に対する不満を捲し立てたところで、東京が私好みの場所になるわけではない。住めば都、というのはこの点において嘘っぱちである。 したがって、私は頻繁に東京から離れ、田舎の自然豊かな場所へ足を運ぶ。 これが私が旅行好きたる所以である。 この文章を書いているのも、実はまさに東京から離れ、旅行へ行かんとするタイミングである。 明日からは四国だ。存分に満喫するとしよう。

理系的ベース練習法その1

ベースに触れてからいつのまにか2年半も経っていた。 元々趣味の多い人間だが、その中でも結構力を入れている趣味の一つだ。 (とはいえ、常に集中的に練習してきたわけではない。) 今日はそんな自分が考えるベースの練習法を書いてみる。

まず楽器を練習する人には2種類のパターンがいると思う。 1つは、自分の好きな曲が弾ければ良い、という人。 音楽というのは音を楽しむものなので、これは非常に理にかなっている。 かく言う自分も、高校時代にピアノをやり始めたことがあって、 その当時は好きな曲の譜面を頑張って覚えて弾く、ということを繰り返していた。 このタイプの人は楽器を長く続けることができるのではないだろうか、と思う。

もう1つは、基礎から学びたいタイプの人。 基礎というのは物事の根幹をなすものであり、これなしに応用はありえない。 その意味で、このタイプの人は最終的な伸びしろは大きいだろうが、 一方で基礎学習は往々にして退屈であり、途中で投げ出しがちである。

この場でどちらが優れていて、どちらが劣っている、などという議論をするつもりはない。 ただし自分の場合はピアノの経験から、前者でいる限り、 初見演奏やかっこいい即興セッションができない、という考えに至った。 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶとはよく言ったもので、その意味では自分はまさに愚者であった。

そこでベースを手に取ったその時から、 この楽器はしっかり基礎から学んでいこう、と強く思った。 と同時に、一つの大きな目標を立てた。 目標というのはモチベーション維持のためにも大事であり、 自分の場合はコード進行のみが記された譜面から、即興でベースラインを奏でられるようになる、とした。

一般の人にとってコードというと、ギターに関連しているイメージが強いと思う。 なぜなら、ギターはコードの音をいくつも同時にかき鳴らすが、 ベースは基本的には単音楽器であり、その意味でコードが関係なそうに見えるのである。 ところがどっこい(死語)、ベースもコード進行のルールに則って演奏を行なう。 誤解を恐れずに言えば、ベースは基本的にコードのルート音(根音)を弾いておけば、 とりあえず大きな問題はない。

そういう意味では上記で立てた目標は、曲と同時にコード譜を見ながら、 そのルートを素早く弾くことができるようになる、と言い換えても良い。 これはこれで一つの大きな目標だ。 ただし、現実的にはただコードのルートを弾いているだけでは、 少しつまらない演奏になってしまう。 したがって、曲と同時にルートを素早く弾けるようになる、というのは 当初の目標を達成する上で一つの通過点にすぎない。

では、まずその中間目標にたどり着くためにどのような練習が必要か、 ということを述べようと思ったが、些か書きすぎたようだ。 というわけで続きはまた今度。

漢字の面白さ

突然だが以下の傍線部の漢字を読めるだろうか。

  • 全校生徒が講堂に集まる

これは簡単だろう。答えは「あつまる」である。では次はどうだろうか。

  • 町内会の面々が寄合に集う

これも問題ないだろう。答えは「つどう」である。 意味としては「あつまる」と同義であるが、より硬い言い方になる。では次は読めるだろうか。

  • 野菜の詰め放題に主婦たちが集る

ここから読めなくなる人も出てくるのではないだろうか。答えは「たかる」である。 意味は「あつまる」や「つどう」に似ているが、少しニュアンスが異なり、 群がるという意味合いが出てくる。最後に次の文章を見て欲しい。

  • 叢に集く虫を聞く。 (羽鳥千尋・鷗外)

これを読める人はなかなかいないはずだ。答えは「すだく」である。 「あつまる」や「たかる」の文語的表現である。

このように、同じ漢字でも多くの異なる読みが存在する。 一般に異なる読みだからと言って、異なる意味になるとは限らないが、 読みと意味には密接なつながりがある。例えば次の文章を見てみよう。

  • 気高き肇国の精神を持つ。

本をよく読む人なら読めるかもしれないが、そこまで一般的な単語ではないだろう。 これは「ちょうこく」と読み、建国と同じ意味を持つ。 実際、「肇める」で「はじめる」という読みがある。 「肇」で「はじめ」と読む人名があることを知っている人は多いだろう。 「ちょう」は音読み、「はじ(める)」は訓読みであり、対応する単語に「肇国」が存在する。 訓読みというのは日本独自の読みであるが、基本的に意味に直結する。 漢字の面白さというのは、このように読みと意味に密接な関係があり、 それらに幅広いバリエーションがあるところにある、と個人的には思っている。

今後も度々このような内容で記事を書くこともあるだろう。 面白いと思った人は漢字学習を始めよう。