誤用と慣用

言葉は時代とともに移ろい変遷する。 その過程で、原義とは異なる意味で用いられるようになることも少なくない。 例えば以下の文の傍線部。

  • 彼のその行動は姑息であると言わざるを得ない。

「こそく」と読むのは周知の通りであり、多くの人が「ずるい、卑怯である」のような意味で用いていると思う。しかし、「姑く」で「しばらく」と読むように、姑息とは本来しばしの間息をつく、すなわち「間に合わせの策を講じる」ことを言う。 この意味で、姑息を前者の意味で使うことは誤用であると言えるが、一方でその意味が敷衍している現状を鑑みるに、もはや慣用と言っても良いのではないかと言う気がする。

原義を重んじることは非常に大切であるが、それに執着するあまり、言葉の変遷を認めないのは、あまりに固陋な考えであると思う。 言葉は「生き物」であることを理解した上で、時流とともにふさわしい言葉の使い方をしていくべきである。

というように断った上で、原義とは異なって、あるいは誤って用いられがちな語彙をいくつか紹介したい。

  • 彼女の応援を受け俄然やる気が湧いてきた。
    • (原義) 急に。突然。(cf. 俄かに: にわかに)
    • (誤用) より一層。
  • 侃侃諤諤の議論を交わす。
    • (原義) 憚ることなく自分の意見を言うこと。かんかんがくがく。
    • (誤用) 喧喧囂囂(けんけんごうごう)との混用から、喧喧諤諤(けんけんがくがく)として用いられる。喧喧囂囂は、やかましく議論がなされるさまのことを言うので、意味的にも正しくない。
  • 玉石混淆の様相を呈している。
    • (原義) 優れたものと劣ったものが入り混じっていること。ぎょくせきこんこう。
    • (誤用) 意味との繋がりから、玉石混合と誤用される。

まあこのような例は他にも無数にある。 原義を知っておくことは決してマイナスにはならないので、これを機会に自分の用いている言葉が、果たして「正しい」意味なのか、を振り返ってみるのもよいかもしれない。

その上で日常生活の中で、どの意味、どの言い回しでその言葉を用いるかは当人の自由である。 言葉は「生き物」なのだから。